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ひがしこくばる ひでお
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| 生年月日 | 1957年9月16日(52歳) |
| 出生地 | |
| 出身校 | 専修大学経済学部経済学科卒業 早稲田大学第二文学部卒業 早稲田大学政治経済学部中途退学 |
| 所属政党 | 無所属 |
| 称号 | 経済学士(専修大学・1980年) 学士(文学)(早稲田大学・2004年) |
| 公式サイト | 東国原英夫オフィシャルサイト |
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| 当選回数 | 1回 |
| 任期 | 2007年1月23日 - |
| そのまんま東 | |
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| 本名 | 東国原 英夫(ひがしこくばる ひでお) |
| 生年月日 | 1957年9月16日(52歳) |
| 出身地 | 宮崎県都城市 |
| グループ名 | たけし軍団 |
| 事務所 | オフィス北野 |
| 活動時期 | 1982年 - 2006年 |
東国原 英夫(ひがしこくばる ひでお、1957年9月16日 - )は、日本の政治家。宮崎県知事(民選第17代[1])。
かつてお笑いタレントであり、ビートたけし率いる芸人集団・たけし軍団の一員でビートたけしの最初の弟子。俳優、作家としての活動歴がある。タレント時代は「そのまんま東」(そのまんま ひがし)や「東英夫」(ひがし ひでお)という芸名で活動していた。
目次 |
1980年、フジテレビの『笑ってる場合ですよ!』のお笑いオーディションコーナー「お笑い君こそスターだ!」に「オスカル・メスカル」という漫才コンビで出場した際に、同番組に出演していたビートたけしの楽屋を訪ねて弟子入りを願い出て[2]、1982年3月に付き人となる。2009年現在までに数多くいるたけしの弟子の第一号である。デビュー当初の芸名は「東英夫」であった。
その直後、コンビの相棒が芸能界入りする目的であった当時の人気アイドル歌手河合奈保子を生で見たことで満足し、芸能界を辞めるということでコンビは解散、やむなく京都産業大学の学生だった丸山昭範と3か月だけという約束で、コンビを結成。師匠たけしのコンビ名「ツービート」の「ツー」をもらって「ツーツーレロレロ」と命名。3か月後、芸能界を辞める丸山に、たけしに黙って失踪したという事にしてもらい、東国原は当時テレビ局でADをしていた大森うたえもん(当時の芸名は大森クンタ)とコンビを組んで「ツーツーレロレロ」を続ける[3]。人気漫才師ビートたけしの弟子と言うことで注目され、関東の有名大学をコキおろすネタを主にやっていた。1983年にたけし軍団の一員となり、「ツーツーレロレロ」のコンビを解消。
1982年前後、たけしと東国原以下たけしの弟子たち(後のたけし軍団)の宴会が開かれ、その席で弟子全員の芸名をたけしが命名した。しかし、東国原は新しい芸名が与えられなかったため、たけしに対して、「殿、私の名前はどうなるのでしょうか?」と聞いた。東国原はすでに「東英夫」という芸名を名乗っていたので、たけしは「“東”はもう、“そのまんま”、でいいよ」と答えた。これはもちろん「お前は従来の芸名『東英夫』を名乗り続けろ」という意味である。しかし、書記係のラッシャー板前がたけしの言葉の意を勘違いしてしまい、「“東英夫”」ではなく「“そのまんま東”」とメモしてしまった。最終的に半ばシャレで、東国原は「『“そのまんま東”』という芸名を与えられた」ということにしてしまった。
加賀まり子の頭に自分の局部をのせて「ちょんまげ」と言い放ったことがあるエピソードが、2003年の夏に放送された壮絶バトル花の芸能界でせんだみつおに暴露される。加賀はまったく怒らずに呆れ顔で「はい、はい」といいながら頭から下ろしたらしい。
TBS「ここがヘンだよ日本人」でレギュラーになったときは鋭い発言が多く、辛口コメンテーターとして発揮していた。特に、太っている出演者50人対して「あなたたちは甘えている」「テレビで、デブで構わないというメッセージは危険」と痛烈に批判していた。一方で、過激な発言も少なくないため、たけしからのツッコミや外国人出演者からのブーイングをよく浴びていた。
テレビ番組で細木数子に「テレビに向いてない」と言われたことがある。
愛弟子に芸人早川伸吾がいる。
日本テレビのお笑いバラエティ番組『ビートたけしの全日本お笑い研究所』(1988年4月~1988年9月)で ニュースキャスター 「東国原英夫」として出演していた(出演者クレジットは「そのまんま東」)。
上岡龍太郎に誘われ、石田純一らとマラソンに打ち込んだ時期があり、それが現在にも生かされている。
不祥事で芸能活動を自粛していた1987年に書いた推理小説『ビートたけし殺人事件』がベストセラーになり、翌1988年にはTBSでドラマ化され、東国原自身もたけし軍団の面々と共に出演。後に結婚することになる、かとうかずこ(後のかとうかず子)もヒロイン役で出演した(現在は離婚)。
かとうかず子との離婚後に「前々から政治家になりたいと思っていた」と言っていたことが明かされ、本人の発言やブログの記事からも政治への強い関心を見せるなど、タレント時代から政界への進出を考えていたという。謹慎中に入学した早稲田大学第二文学部では、卒業論文のテーマとして選挙活動を扱ったほか、卒業後も同学政治経済学部に再入学して地方自治を専攻している。同学部入試において出題された小論文の「入学後に学んだことをどのように社会に還元するか?」との課題に対して、「地方自治を学び、それを実践する」という主旨の論述を明確に展開しており、この頃までに地方自治への進出志向が確固たるものとなっていた。
2006年には本人を代表とする政治研究会「そのまんま会」を設立、同12月4日には故郷宮崎県の県選挙管理委員会に政治団体としての届け出を行い、地元での事務所開きにおいて、支援者を前に自らの出馬にかける思いを語った際には過去の不祥事についても自ら切り出し語った。その数日後には所属していたオフィス北野を退社。官製談合事件で当時の現職知事安藤忠恕が逮捕されたことに伴う宮崎県知事選挙へ無所属で立候補。当初は過去の問題行動や言動などのイメージもあって出馬を疑問視する声も多かった。
東国原は、選挙活動において、タレント候補にありがちなタレントの選挙応援を一切受けないことで、「脱タレント」を印象付ける選挙活動を展開した。遊説や立会演説では宮崎弁を使い、早稲田大学出身をアピールし、選挙活動最終日にはマラソンをしながら活動した。宮崎再建・宮崎自立のための具体策を打ち出したそのまんまマニフェストや無所属であることの「しがらみのなさ」を強調しての県政批判などは、政治に無関心な無党派層の関心を呼び起こしただけではなく、現状に不満を持つ政党支持層へも支持を拡大していくこととなった。
東国原をサポートする政務秘書には元たけし軍団のクロマニヨン吉川が就任。早川伸吾と共に、多忙な東国原の生活面を助けている。
こうして、「しがらみのなさ」や「宮崎を変える」という期待感が県民に好印象を与えたことに加え、保守陣営の分裂という追い風も幸いして、得票のうち約45%を得て当選した。各マスコミによる出口調査では無党派層だけでなく各政党支持層からも一定の票を獲得したことが伺える。小学校の卒業文集に「夢は政治家とお笑い芸人」と書いていたが、その夢を2つとも叶えることとなった。
選挙活動は芸名の「そのまんま東」で行ったが、県知事に就任してからは本名の東国原英夫(ひがしこくばる ひでお)で活動している。それに伴い、「そのまんま東」は2007年3月にたけしの付き人であるゾマホン・ルフィンが襲名した(2代目)。
作業服で初登庁したり、「椅子をパイプ椅子に変える」「こんな立派な机もいらない」「退職金は出来高払い。議会がいらないと言えばいらない」などの言動が地元では好意的に受け止められている。知事専用の公用車について、当初は「廃止する」と述べていたが、燃費や他の手段を使った場合のコストなどの問題を考え、車種をトヨタの「センチュリー」から、ハイブリッドカーである「クラウンセダン」へ乗り換え、これにより年60万円の公費削減となった。似たような理由で知事公舎にも住んでいない(置き換えられたセンチュリーは競売に掛けられ、255万円で落札(譲渡)された。また副知事車両、出納長車両も同様に競売に掛けられ落札された)。
報道番組やワイドショーに連日報道されたり多くの特集が組まれるようになったとともに、積極的にマスメディアに出演して宮崎県の宣伝を行っており、自らを「宮崎県のセールスマン」と呼んでいる。バラエティー番組への出演も多いことから、「テレビに出演しすぎだ」「知事になってもタレントのつもりでいる」などの批判が一部からも挙がっているものの[6]、本人は効果的な宮崎県の全国に対するPR活動として重点を置いている。就任後のテレビ番組出演はすべて宮崎県のPR目的であるため、スケジュール、時間的にどうしても不可能な場合を除き、極力出演依頼を断らないようにしている。また出演料もタレント時代では考えられないような低い条件でも出演を断ることはほぼない。仕事によっては、ほぼノーギャラで交通費など雑費のオファー側負担だけでもテレビ番組やイベントに出演することもあるとしている。
2007年1月23日の知事就任直前に清武町で、そして直後には日向市、新富町で鳥インフルエンザが発生した。この状況に素早く対処すべく、1月29日には中央省庁を訪れ、国からの財政支援などを要請した。また、県内の民放局で流す、県内産の鶏肉や鶏卵の安全性を訴えるCMに自ら出演したり、宮崎県の巨人軍キャンプとソフトバンクの練習場を訪れ、宮崎県産地鶏などを贈呈するなど、風評被害対策のため、鶏肉の安全性を盛んにアピールしている。これらの努力の甲斐もあり、宮崎の地鶏の消費量は、発生前より4割も増加した(その他にも県内特産品のPRも積極的に行っている)。ソフトバンクのキャンプでは監督の王貞治と会って、「王監督の手は神のようだ」と言っていた。
2007年2月15日、「オール野党」とも評される県議会で所信表明演説を行った。その様子はMRT(宮崎放送)で午前9時55分から生中継(所信表明演説の中継は県議会史上初)され、普段は埋まることのない60の傍聴席を求めて93人の市民が訪れるなど、異例づくめの所信表明演説となった。その際に発した「宮崎をどげんかせんと(どうにかしないと)いかん」というフレーズは幾度となくマスコミに取り上げられ、注目を集めた。この言葉は流行語大賞にも選ばれた。なお、実際には「どげんかせんないかん」が正しく、本人もそう発声している。地元都城では、「どげんかせんといかん」と発声することはまずない。また、「どげんか」と発声するのは実際には鹿児島地方で、都城は旧薩摩藩領だったため同様に言うのであって、宮崎市などは「どんげか」と発声する。こういったことが間違った形で広まり、流行語大賞も間違った形でノミネート・受賞に至っている。
2003年に4億9600万円の公費を費やして建設された知事公舎を批判し、選挙前から住んでいるマンションに知事に当選後も住んでいたが、当選後は自宅マンションや近隣住民への悪戯が多く迷惑を掛けているとの理由で勤務先の県庁に歩いて行ける近場のマンションをローンで購入し、2007年3月29日から住んでいる。
知事選で争った、自民党推薦の持永哲志を副知事に迎えるという人事構想を抱く。自民党会派が勢力を占める県議会とのパイプ役や中央省庁とのパイプ役を模索していると報道されるが、「脱・官僚」を期待して東国原に投票した県民の反発を招き、起用を断念した。副知事には総務省出身で宮崎県に出向中の河野俊嗣を起用した。
2007年4月16日の定例記者会見において、「特に発表することがない場合は(会見を)カットしてもよいのではないか」、「毎日取材に答えているので、改めて話す内容はない。それでもやる意義はあるのか」などとして、各社の記者と20分間にわたり問答を繰り返した。
後に出演した『サンデープロジェクト』(テレビ朝日)4月29日放送分でも「特に発表することがない場合でも、わざわざ12時まで会見時間を設けるのは効率が悪く、浮いた時間を公務に回すべき」(通常の定例記者会見が11:00~12:00の1時間で行われるため)と発言したが、かつての長野県知事である田中康夫のように記者クラブを撤廃させようというものではなく、あくまでも県政の効率化のための提案であることを述べている。その際は一部保守系メディアから非難を受けた[7]。
2007年4月に宮崎日日新聞社が行った世論調査は、支持86.7%、不支持1.1%であった。
2008年1月20日に、「新しい日本をつくる国民会議」(21世紀臨調)を母体とする「地域・生活者起点で日本を洗濯(選択)する国民連合」(通称:せんたく)の設立に発起人として参加。
道路特定財源問題では「暫定税率維持」の方針を明確に打ち出し、「暫定税率撤廃」を主張する政党(主に民主党)や議員に対して、連日テレビで批判を繰り返した。この為、東国原は新「道路族」と呼ばれる事もある[8]。
2008年6月、宮崎県議会の一般質問に於いて、現在は予定額250万円以上の全ての工事を一般競争入札であるのに対して、「今の方法がベストではない。検証結果を踏まえ、その都度見直す」と指名競争入札の復活も検討する方針を示した。[9]
2007年1月から2008年9月30日までの間に政治資金パーティーを11回開き、約6000万円を集金した。東国原の前任者で、競売入札妨害容疑によって逮捕された安藤忠恕の政治団体(明日の宮崎を創る会)に寄付していた県建設業政治連盟(宮崎県内の建設業界による政治団体)も、東国原のパーティ券を購入していた[10]。
2010年1月、定例記者会見で来期の県知事選挙に関して「共産党が立候補しなければ無投票で(自分が)再選され経費が5、6億円浮く。共産党に(立候補を見送るよう)期待したい」という発言をしている。[11]
2010年6月、対アジア戦略に関するインタビューで「僕は福岡と韓国・釜山(プサン)に海底トンネルを掘り、新幹線、あるいは高速道路を通せないかと考えています」との日韓トンネルに関する持論を展開している[12]。本人が日韓海底トンネル推進議員連盟などに加盟して実際の活動を行なっているかどうかは不明。
2008年10月、地元宮崎県選出の代議士・中山成彬(宮崎1区)が次期衆議院議員総選挙に出馬せず、引退を表明した際には宮崎県政界の中に東国原を後継候補者として擁立する動きがあった。しかし、東国原は10月6日、「現時点で(衆議院の)総選挙に出る意思はない。知事の任期を全うしたい」と衆議院総選挙出馬をしないことを表明した[13]。しかし、程なく変節し、11月20日夜に延岡市内で行われた講演で、「なるからには閣僚か、トップです。初当選、初入閣[14]」と述べた。
2009年6月23日、当時自由民主党選挙対策委員長であった古賀誠と会談し、次期衆議院議員選挙への出馬を要請された。それに対して、全国知事会の改革案を一言一句違わずに受入れることや自身を「自民党総裁候補」とすることを条件として提示した。一方で、同日FNNスーパーニュースに出演し、「民主党で出馬する方が、早く改革できるのでは?」と問われたのに対し、「党としての経験が蓄積されていることを重視し、自民党が下野することになっても民主党で出馬することはない」と発言し、相対的に自民党を支持していることを示唆した。会談の仲介役となったのは、早大時代の友人である唯是一寿。
2009年7月1日、毎日新聞の朝刊において、地方分権担当大臣または無任所の大臣としての入閣との報道がされた。これを受けて、同日、宮崎県高千穂町で報道陣の問いかけに対し、「大臣であろうがなかろうが、自民党が変わるならお受けします」旨返答し、改めて次期衆議院議員選挙へ出馬する意向を示した。さらに、翌日付の朝日新聞において、民主党が自らを代表に選ぶことはないとの見込みを理由に、自民党から出馬することを改めて表明し、「自分が自民党から出馬すれば自民党は負けない、負けさせない」「(国会議員になった場合)次期県知事には自分の継承者を指名した上で口出しするから、事実上の県知事は自分であり、次期県知事は傀儡政権である」旨の発言をしたと報道された。
2009年7月16日、記者会見を開き、自民党からの出馬要請を受けないことを表明。理由は、出馬を要請した古賀誠選挙対策委員長からの書簡で、全国知事会がまとめた地方分権に関する方針を同党の政権公約(マニフェスト)に盛り込むことについて「100%のむことは厳しい」との返答があったためとした。
| 官職 | ||
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| 先代: 安藤忠恕 |
民選第17代:2007 - |
次代: (現職) |
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This text is available under the terms of the GNU Free Documentation License. 最終更新日時: 2010年9月7日