宗教改革(しゅうきょうかいかく)とは、16世紀(中世末期)のキリスト教世界における教会体制上の革新運動である。ルターの贖宥状批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、プロテスタントの分離へと発展した。
ルターによるルーテル教会、チューリッヒのフルドリッヒ・ツヴィングリやジュネーヴのカルヴァンなど各都市による改革派教会、ヘンリー8世によって始まったイギリス国教会などが成立した。また、当時はその他にアナバプテスト(今日メノナイトが現存)など急進派も力を持っていた。
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人文主義者による聖書研究が進んだために起こった「原始キリスト教精神に帰るルネサンス的運動」として捉える立場もある。すなわち、同じルネサンス的運動が、イタリアにおいては、ギリシア・ローマの古典文化への復帰として表れ、ドイツにおいては、聖書への復帰と言う形で現れたとする考え方である。
16世紀は近代国家の萌芽の時代で、それまで各地域からの教会税はバチカンの収益となっていた。近代国家の誕生とともに、各国は経済的な理由から自国の富がバチカンに流れることを可とせず、自国内に止めておくことをむしろ歓迎し、それぞれの地域の教会が、ローマと絶縁することを積極的に後押しした。
また、宗教改革の理念が拡大・浸透するうえでは、グーテンベルクによる印刷技術が大きな役割を果たした。
イングランドのウィクリフやベーメンのフスらの聖書主義者やサヴォナローラらが行ったローマ教会の批判が、宗教改革の先駆的運動ともみなされる。ヤン・フス、サヴォナローラはローマ教会によって処刑され、プロテスタント殉教者として知られている。
詳細は「マルティン・ルター」を参照
ルターは、1517年にローマ教会の堕落に抗議して95ヶ条の論題を打ちつけ、この贖宥状批判は大きな反響を呼んだ。宗教改革は各地に拡大し、ローマ教皇の絶対主義に嫌悪していた周辺の諸侯の支持を得た。農奴制からの解放を求める農民も反乱を起こし、神学者であったトマス・ミュンツァーがこれに呼応し、闘争が激化するとルターはこれを批判するようになり、鎮圧された(ドイツ農民戦争)。カトリックを支持する神聖ローマ皇帝と、ルター派の諸侯の間で戦闘が続いたが、1555年にアウクスブルクの和議が結ばれ、諸侯はカトリックと新教(ルター派)を選択する権利が認められた。
ルターの貢献は、聖書の自国語(ドイツ語)訳にある。当時、カトリック教会では、ラテン語がミサにおいて使用され、一般大衆には理解できなかった。ルターは聖書を、学者の手から一般人の手に取り戻したのである。また、音楽を好むルターは賛美歌の作詞・作曲をしたことにおいても知られている。
カルヴァンはすでにファレルによって宗教改革が始まっていたジュネーヴに立ち寄った際に、請われて留まりそこで活動するようになった。ルターの宗教改革が信仰の改革に徹していたのに対し、カルヴァンは礼拝様式と教会制度の改革に着手した。礼拝式文を整え、ジュネーブ詩篇歌を採用し、信仰告白・カテキズム・教会規則を整備し、教師職の他に(彼らの理解によれば)初代教会以来の信徒の職務である長老職と執事職を回復し、長老制の基礎を作った。またカルヴァンは聖餐を重んじ、毎回の礼拝でこれを執り行おうとしたが、それは市当局の反対により実現しなかった。
イングランドでは、ヘンリー8世の離婚問題が改革の直接原因で、政治的・経済的な動機も強い。ヘンリー8世は、教皇権と分離したイギリス国教会(アングロ・カトリック)を設立し、新たに教会組織を作ろうと図った。これに反対した大法官トマス・モアは処刑された。のちヘンリー8世はローマ・カトリックの修道院を多数廃止し、その財産を没収して、国庫へと入れた。
ヘンリー8世のあとを継いだエドワード6世 は、1552年にジョン・ノックスの影響を受けたカルヴァン主義的な42箇条に署名し、エドワード6世の時代にプロテスタントの宗教改革が進められたが、メアリー1世はローマの教皇を中心とするカトリック教会を復活してプロテスタントを迫害し、女性子供を含む約300人を処刑したため、ブラッディ・マリー(血まみれマリー)と呼ばれた。処刑された中にはトマス・クランマー、 トマス・クロムウェル、ヒュー・ラティマー、ニコラス・リドリーらがおり、彼らは今日プロテスタントの殉教者として知られている。[1][2]
これは、ローマ教皇を中心とするカトリック教会の考えによれば、修道院解散で富を得た者たちが反発したにすぎないとしている。それ以前、ローマ教会は英国に膨大な土地、財産を所有していた。
メアリー1世の後を継いだエリザベス1世は再びイングランド国教会を国教とし、イングランドにおける国教会の優位が確立した。しかし、政治的・経済的な動機が強かったイングランドの改革を不十分とみなし、更に改革を推し進めたのが清教徒たちであった。
1605年にローマ・カトリック教徒が英国議会を爆破しようとする火薬陰謀事件が起こったが、事前に発覚した。
ジョン・ノックスにより長老派教会が形成され、スコットランド教会の宗教改革が進められるが、殺戮時代にカヴェナンターが虐殺された。[3]
詳細は「ユグノー」を参照
フランスの改革派教会であるユグノーが成長したが、ローマ・カトリックによるサン・バルテルミの虐殺が起こり、ローマ教会がプロテスタントを虐殺したため、プロテスタントは組織的には壊滅状態になった。[4]
ドイツ、フランスなどではローマ・カトリック勢力がプロテスタント勢力と争い、凄惨な闘争を繰り広げた。
カトリック内部でも改革の必要性は認識されていたが、プロテスタント運動が引き金となり、カトリック教会ではトリエント公会議を開催した。また、他を非難するよりまず自ら戒め、規律正しい宗教生活しようとイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらが中心となりイエズス会が設立された。イエズス会はその後、キリスト教の大分裂を防ぐべく欧州各国に勢力を伸ばし、非ヨーロッパ諸国への布教活動を行った。(→対抗改革)
柏野健三『社会政策の歴史と理論』ふくろう出版、1997年
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