| (国旗) | (国章) |
| 公用語 | オランダ語(60%)、フランス語(39%)、ドイツ語(1%) |
|---|---|
| 首都 | ブリュッセル |
| 最大の都市 | ブリュッセル |
| 通貨 | ユーロ (€)(EUR)[2][3] |
| 時間帯 | UTC +1(DST: +2) |
| ISO 3166-1 | BE / BEL |
| ccTLD | .be |
| 国際電話番号 | 32 |
ベルギー王国(ベルギーおうこく)、通称ベルギーは、西ヨーロッパに位置する連邦立憲君主制国家。隣国のオランダ、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。欧州連合の原加盟国であり、その主要機関の多くが首都ブリュッセルに置かれている。
19世紀にネーデルラント連合王国(オランダ)から独立した国で、オランダ語が公用語の北部のフランデレン地域と、フランス語と一部ドイツ語が公用語の南部のワロン地域とにほぼ二分される。建国以来、単一国家であったが、オランダ語系住民とフランス語系住民の対立(言語戦争)が続いたため、1993年に連邦制に移行した。
目次 |
正式名称は、
公式の英語表記は、Kingdom of Belgium(キングダム・オブ・ベルジャム)で形容詞はBelgian(ベルジャン)。ラテン語表記もBelgium(ベルギウム)である。
日本語の表記はベルギー王国。通称はベルギー。漢字による当て字で白耳義と表記され、白と略される。
ベルギーという名称はガリアに住んでいたベルガエ人から取られたといわれている。
詳細は「ベルギーの歴史」を参照
今日ベルギーと称される地域には、旧石器時代ごろより農耕と漁労を主とする人類の定着が見られる[1]。新石器時代に入り、大西洋の海進によって温暖化が進むと中央ヨーロッパから移住してきた種族が定住をはじめ、牧畜技術の移入と農耕技術の革新をもたらした[2]。こうした民族と文化の移入は紀元前1000年頃まで続き、社会的組織の構築や金、銅、錫の生産、支石墓といった文化移入の痕跡が見られる[2]。また、エジプト産のビーズなども発見されていることから、この時代、地中海世界の広い範囲で行われた交易に参加していたとも考えられている[2]。紀元前6世紀ごろになるとケルト人がライン川を渡って到来し、移住してくると、彼らによって火葬の文化や鉄器がもたらされた[2]。
紀元前後になるとローマ人との接触がはじまり、ガイウス・ユリウス・カエサルが紀元前57年に著した『ガリア戦記第二巻』に、この地に居住する民族について初めて言及がなされた[2][3]。カエサルは同地に居住するゲルマン人との共通性を持つケルト人の多くを総称してベルガエ族と呼んだ[2]。
ベルガエ族は多数の部族にわかれてベルギー地方で生活していたが、ガリア戦争を経て同地は紀元前51年にガリア・ベルギカとしてローマ帝国の属州となった[3]。ローマはその版図をライン川まで広げてゲルマニアの征服へと乗り出し、その過程で遠征拠点の都市としてトンヘレン、トゥルネー、アルロンといった植民都市が築かれた[3]。
アウグストゥスの時代にベルギーを含むライン川左岸からフランス東北部にわたる地域がベルギカ州に組み込まれたが、ドミティアヌスは東部国境線を東進させてライン川沿いの地域をベルギカ州から分離させて上下ゲルマニアとし、今日のベルギーを構成する大部分の地域はこのとき下ゲルマニアに組み込まれた[4]。
3世紀に入り、海進によって居住地を失った人々が大規模な移住をはじめた。これによってフランク族がライン川を越えてローマ帝国へ侵入をはじめ、ライン川近郊の多数の都市が占拠されていくと、帝国の国境はブローニュとケルンを結ぶ軍用道路線まで後退した[3]。こうして北部ではゲルマン人の定着に伴うフランデレン語が、南部ではワロン語が浸透していき、その結果生まれた境界線は以降のベルギーにおけるラテン系・ゲルマン系という民族紛争、言語戦争の起源となった[5][6]。
フランク族の侵入によって徐々に弱体化していったローマ帝国のフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスは、358年、サリ族のトクサンドリア定着を認めた。481年、次第に勢力を強めるサリ族の王に即位したクロヴィス1世はトゥルネーを首都とするメロヴィング朝を建国した[6]。クロヴィス1世はその後、ローマ帝国ガリア地方の軍司令官シアグリウス、ライン地方のテューリンゲン族、ルクセンブルク南部のアレマン族、ブルグンド王国、西ゴート王国といった勢力を次々と打ち倒し、北海からピレネー山脈に至る広大な領地を獲得した[6]。しかし、クロヴィス1世没後は王国領土が4人の遺子に分割相続され、内部対立による衰退が進んだ[7]。
7世紀中盤ごろになるとアウストラシアの宮宰としてピピン2世が頭角を現し始めた。687年、テルトリー会戦でネウストリアに勝利すると、フランク王国における支配権を確立した。732年、カール・マルテルの時代にトゥール・ポワティエ間の戦いにおいてウマイヤ朝に勝利、751年にはピピン3世がクーデターを断行し、メロヴィング朝に代わり、カロリング朝が興った。754年、ランゴバルド王国を討伐して獲得したラヴェンナを教皇に寄進することにより宗教的後ろ盾を得ることとなり、フランク王国は宗教的国家という特色を持つようになった[8]。
カール大帝の時代になるとフランク王国は今日のフランス・ドイツ・イタリアに相当する地域を統一し、東ローマ帝国を凌ぐ大国となった[8]。800年、サン・ピエトロ大聖堂においてレオ3世より西ローマ帝国の帝冠を授与された(カールの戴冠)。民族大移動以来、混成していた西ヨーロッパが東ローマから独立した存在としてまとまり、ギリシャ・ローマ的要素、キリスト教的要素、ゲルマン的要素が融合して新しい文化圏を形成した中世ヨーロッパ世界が確立した[9]。
カール大帝が没し、ルートヴィヒ1世の治世が終わった843年、ヴェルダン条約によって王国は東フランク王国、西フランク王国とロタリンギアに分けられた。さらに870年のメルセン条約によってロタリンギアは東西フランクに分割吸収された。この結果ベルギー地方はスヘルデ川を境として分裂することとなった[10]。
また、9世紀初頭よりはじまったノルマン人襲来の脅威から身を守るため、各地で地主や司教たちを中心としてフランドル伯領、ブラバント伯領、リエージュ伯領、エノー伯領、ナミュール伯領、リンブルグ伯領、ルクセンブルク伯領といった封建国家が誕生した[10]。なかでもフランドル伯領は、リンネルの交易によって「ヨーロッパの工場」としての地位を築き上げ、ブリュッヘやヘントといった都市を中心に繁栄を誇った[11]。
10世紀に入ると城や砦に隣接して誕生した居住地(ブルグス)の住民は共同体を形成するようになり、キヴェスやブルゲンセスといった呼称で統一的に呼ばれるようになった[12]。特にブルゲンセスは何らかの特権を賦与された住民層を示す語となり、外来者や下層民らと自身を区別する意識を持つようになった。彼らは土地の所有など一定の条件を満たす者同士で宣誓共同体(コミューン)を結成して法人格を持つグループを構成した[13]。コミューンを通して領主との双務的契約の締結がなされるようになり、コミューンは金銭の支払いや領主への奉仕を交換条件として税の免除や一定の自治権の取得といった特権を獲得していった[14]。こうして都市は領主と一部の特権階級者によって支配されるようになり、一般市民との対立を招く結果となった[15]。
1337年、フランドル伯領の諸都市はイングランドの王エドワード3世の支援を受けて反乱を起こした。一時的に諸都市はイングランドとの通商や種々の特権を獲得することに成功するが、1381年にはフランドル伯の反撃を受け、ブリュッヘが征服されてしまう。この結果フランドル地域はフランドル伯死後にブルゴーニュ公国に組み入れられることとなった[16]。
フィリップ豪胆公から始まるブルゴーニュ公国は、「飛び地」として獲得した豊かな産業を持つフランドル地方の経済力を背景として版図の拡大を図った[17]。飛び地の解消を目指してフランス王国へと積極的な介入を見せたが、シャルル突進公の1477年、ナンシーの戦いにおいて敗北を喫すると逆にフランスからの侵略を受けることとなった。シャルル突進公の戦死を受けて、娘マリーはかねてより婚約していたハプスブルク家のマクシミリアンに救援を要請し、結婚した[18]。ここにブルゴーニュ公国は終焉を迎え、フランドル地方はハプスブルク家の支配下に組み込まれることとなった。
同家がスペイン系とオーストリア系に分かれるとスペイン領となった。16世紀にはスペインの支配に対して反乱 (八十年戦争) を起こし、ネーデルラント17州のうちユトレヒト同盟を結んだ北部7州は1648年のヴェストファーレン条約によってネーデルラント連邦共和国として正式に独立を承認されたが、南部諸州はスペインの支配下に留まった。この南ネーデルラントが現在のベルギー王国の起源である。
18世紀のスペイン継承戦争の後にオーストリア領となる。1789年にハプスブルク家の支配に対して革命を起こし、1790年には独立国家であるベルギー合衆国を建国する。ベルギー合衆国は短期間で滅ぼされ再びハプスブルク家の支配下に戻るが、フランス革命戦争によりフランス軍に占領され、1797年のカンポ・フォルミオ条約によってリエージュ司教領と共にフランスに併合された。ナポレオン戦争の終結後、1815年のウィーン議定書によって現在のオランダと共にネーデルラント連合王国として再編された。1830年にネーデルラント国王ヴィレム1世の支配に対して独立革命を起こし、同年に独立を宣言する。1831年にはドイツの領邦君主のザクセン=コーブルク=ゴータ家からレオポルドを初代国王として迎えた。1839年、オランダはベルギーの独立を承認し、ベルギーは領有していたルクセンブルク大公国とリンブルフを、オランダと分割した。
1885年に第2代国王レオポルド2世が個人の所有地としてアフリカにコンゴ自由国を領有する。コンゴ自由国はレオポルド王の極めて残忍な統治で徹底的に搾取されコンゴの人口は2500万人から1500万人に激減したと推定されている。国際的な非難を呼んだため、1908年にベルギーの国家的所有に移されて、ベルギー領コンゴとして1960年まで支配した。第一次世界大戦では、1914年にドイツ帝国により中立を犯されて占領されるが、1919年のヴェルサイユ条約によりドイツ帝国の植民地であった現在のルワンダとブルンジを獲得した。第二次世界大戦では、1940年にナチス・ドイツにより再び占領された。第二次世界大戦後は欧州経済共同体の創設に参加するなど、欧州統合に向けての中心的役割を果たすようになる。一方、1960年にコンゴ民主共和国がベルギーから独立したが、独立に際してのベルギーの拙劣な対応はコンゴ動乱やモブツ体制の確立など、コンゴの不安定化に大きく寄与した。
現在、首都ブリュッセルは欧州委員会などの欧州連合の主要な機関が置かれており、欧州連合の「首都」的な性格を帯びている。
カトリック国家ベルギーは、もともとカトリックの神聖ローマ帝国の飛び地領土ネーデルランドであった。ジャコバン派が主導したフランス革命国民義勇軍の、将軍ジュールダンと公安委員カルノーはベルギー戦線でロベスピエールの恐怖政治中1793年10月、神聖ローマ帝国軍(オーストリア軍)を殲滅。同恐怖政治中1794年6月ジュールダン将軍とベルナドット将軍は再度ベルギー戦線で神聖ローマ帝国軍を殲滅した。
この後、神聖ローマ帝国領ネーデルランド(ベルギーとルクセンブルク)を、フランス革命総裁政府のフランス軍は占領した。同総裁政府の軍司令官ナポレオン将軍(当時28歳、第一統領就任以前)と神聖ローマ帝国は、1797年10月『カンポ・フォルミオの和約』を結んだ。神聖ローマ帝国は、その中でベルギーとルクセンブルクをフランスへ正式に割譲した。
ナポレオン戦争後、1815年ウィーン会議の取り決めである『ウィーン議定書』にもとづき、ルクセンブルク大公国はドイツ連邦に加盟した。1815年住民がドイツ人とフランス人からなるカトリックのベルギーは、ドイツ人からなる新教徒のオランダの国王ウィレム1世に併合されたが、1830年ベルギーは独立宣言。1831年ベルギー憲法を制定し、主たる納税者であったブルジョワジー(財産家・資本家)男子による二院制と、国王の行政行為は首相の承認(副署)を要すると規定した。
ベルギー憲法の、その首相副署主義は新しい立憲的制度であった。これは旧教国カトリックのベルギーが、外から連れてくる新教徒の国王へ対抗するためのものであった。ザクセン王家傍系の貴族でナポレオン戦争中ロシア帝国軍のドイツ人傭兵士官として戦い、1816年イギリスに帰化し、イギリス国王ジョージ4世(ビクトリア女王の叔父)の娘を妻にめとった、レオポルド1世が立憲君主として1831年即位した。彼は新教徒であったが、新教国オランダから独立した新国家であったカトリックの初代ベルギー国王に、外から連れてこられ即位したのであった。
1839年オランダとベルギーとの平和条約(ロンドン条約)が締結された。そこにはオランダがベルギーの独立を認める見返りに、ベルギーは永世中立国の宣言をせよということになっていた。これは新教国オランダにとって、旧教国フランスとベルギーの同盟による軍事的脅威をなくすものであった。ベルギーの永世中立国化はオランダの安全保障が関わっていた。
ベルギー初代国王レオポルド1世(在位1831年~1865年)の次妻は、フランス国王ルイ・フイリップの娘で、その間にできた子が、次王レオポルド2世となった。だが彼の甥アルベール1世(在位1909年~1934年)がベルギー国王を継ぎ、第一次世界大戦に遭遇した[19]。このように新興ベルギー王家はイギリスやフランスに近く、第一次大戦でアルベール1世がドイツ軍に徹底抗戦したのはこれが一因であった。
ベルギーは立憲君主制を採用している。国家元首である国王は、立法権を連邦議会と共に行使し、行政執行権を憲法に基づき行使する。1990年に妊娠中絶が合法化される際に、当時の国王ボードゥアン1世は自身の信念に基づき中絶法案への署名を拒否したが、一時的に国王を「統治不能」状態として内閣が代行する事により、立憲君主制の原則を守ったという出来事があった。
連邦議会は両院制である。上院である元老院は、40議席を直接選挙、31議席を間接選挙によって選出する。左記の71議席に加えて、元老院議員には国王の子女が名を連ねる。下院である代議院の議席数は150で、比例代表選挙により選出する。いずれも任期は4年で、同日に投票が行われる。前回選挙は2007年6月10日に投票が行われ、キリスト教民主フラームス (CD&V) が第1党となった。この結果を受けて、フランデレン首長イヴ・ルテルムが国王によって組閣責任者に任命されたが、フランデレン地域の自治権拡大などの政策が反発を呼んで連立政権に向けた交渉が長引いた。選挙から半年が経った同年12月、ルテルムが組閣を一旦断念し、既に退陣を表明していた首相ヒー・フェルホフスタットが任期を2008年3月23日までとする暫定内閣を発足させることで合意がなされた。暫定内閣の任期満了を控えた3月20日、ルテルムが首相に就任し、選挙から9ヶ月続いた一連の連立交渉がようやく終了した。しかし、2008年12月、フォルティスの売却に関して、一部株主が政府を相手取り起こした訴訟に対して司法大臣が裁判所に圧力をかけた問題により、ルテルム内閣は総辞職をした。後任の首相には下院議長のヘルマン・ファン・ロンパウが就任した。2009年11月25日、ファン・ロンパウが欧州理事会議長に任命されたことにより辞職し、ルテルムが再び首相に就任した。
連邦政府の長である首相は、議会の総選挙後に国王から指名された人物が組閣責任者となり、最大15名からなる内閣を組閣する(議院内閣制)。組閣責任者は必ずしも第1党から選任されるとは限らない。もしも、この後に下院の承認を得られない場合は、国王に対して辞表を提出することになる。
詳細は「ベルギーの政党」を参照
自由党、社会党、キリスト教民主党、環境政党がオランダ語系(フラマン系)とフランス語系(ワロン系)に分離するなど、地域で政党が分かれているのがベルギーの政党の特徴である。
詳細は「ベルギーの軍事」を参照
ベルギーは北大西洋条約機構に加盟し、集団安全保障体制を構築している。軍は2002年に単一の統合軍に再編成されており、その下に陸上部隊COMOPSLAND(ベルギー陸軍)・海上部隊COMOPSNAV(ベルギー海軍)・航空部隊COMOPSAIR(ベルギー空軍)・医療部隊COMOPSMED(ベルギー医療部隊)の4部隊が編成されている。冷戦期までは徴兵制が敷かれていたが、それは廃止された。現在の兵力は現役約4万人、予備役約10万人。アメリカとニュークリア・シェアリングをしており、独自の核戦力は保持していないが核抑止力をもっている。
詳細は「ベルギーの地方行政区分」を参照
ベルギーは1993年の憲法改正により連邦制に移行した。連邦は、ブリュッセル首都圏地域、フランデレン地域、ワロン地域の3つの地域と、フラマン語共同体、フランス語共同体、ドイツ語共同体の3つの言語共同体の2層、計6つの組織で構成される。そして、フランデレン地域とワロン地域の2つの地域は、それぞれ5つの州に分かれている。
ただし、フラマン語共同体とフランデレン地域については、ブリュッセル首都圏を除き領域が完全に重なるので、現行憲法が施行されてまもなく、フラマン語共同体政府がフランデレン地域政府を吸収する形で統合された。統合された自治体は単にフランデレンと呼ばれている。つまり、現在のベルギーには連邦構成主体は憲法上は6つ存在するが、実際上は5つしか存在しない。
フランデレン地域とワロン地域の境界線は、国土のほぼ中央を東西に横切っており、言語境界線と呼ばれる。
| 都市 | 州 | 人口 | |
|---|---|---|---|
| 1 | ブリュッセル | 1,004,849 | |
| 2 | アントワープ | アントワープ州 | 461,496 |
| 3 | ヘント | オースト=フランデレン州 | 233,120 |
| 4 | シャルルロワ | エノー州 | 201,300 |
| 5 | リエージュ | リエージュ州 | 187,086 |
| 6 | ブルッヘ | ウェスト=フランデレン州 | 117,224 |
| 7 | ナミュール | ナミュール州 | 107,178 |
| 8 | モンス | エノー州 | 91,221 |
| 9 | ルーヴェン | フラームス=ブラバント州 | 90,706 |
| 10 | メヘレン | アントワープ州 | 80,176 |
一般的に北部のフランデレン地域は平野が広がっているのに対し、南部のワロン地域はアルデンヌ高地を中心に丘陵地帯が多い。北部は豊かな土壌が広がり、野菜や果実等の都市近郊型農業や、農耕飼料を必要とする養豚・養鶏業等が営まれているのに対し、南部はアルデンヌ高地を中心に冷涼な気候で、酸性土壌も多く、肉牛、乳牛等の放牧による畜産業や、ビート栽培等が主流である。最高地点は東部ドイツ国境付近のボトランジュで、海抜693メートルに達している。
ケッペンの気候区分による温帯(Cfb)に属する。これは暖流の北大西洋海流による。晴天の続く夏期でも最高気温が20度を上回ることは多くない。面積の小さな国だが、内陸になるほど、大陸性気候の特徴が現れる。すなわち、夏の気温が上がり、冬期は寒くなる。さらに降水量の年変動が大きくなる。
首都ブリュッセル (ブリュッセル首都圏地域内のUccle、北緯50度42分、東経4度21分、標高100m)の年平均気温は10.2度[20]、最寒月は1月(平均気温3.1度)、最暖月は7月(同17.9度)。相対湿度の年平均値は81.6%(40年平均値)、最も湿潤なのは12月 (88.4%)、最も乾燥しているのは5月 (75.2%)。年平均降水量は823.0mm、最も雨の多いのは11月 (79.5mm)、最も雨が少ないのは2月 (53.1mm) である。
1人当たりのGDPが世界最高クラスであり、製造業を中心に豊かな資本力を誇る。ただし、小国であるため貿易への依存傾向が強く、経済が安定しているとまでは言い切れない。1990年代は、上昇傾向にあったが、21世紀に入って停滞状態になった。物価は低水準安定。また、景気に左右されず、失業率は概して高い。ただし、工業・サービス業が発達した北部のフランデレン地域と、石炭・鉄鋼業が衰退した南部のワロン地域では失業率に2倍以上の開きがある(後者の方が失業率が高い)。また首都ブリュッセルは移民が多く、低技能労働者が多いことから、失業率はやはり高い。北部と南部では言語が違うことから、労働者の需給にギャップが生じても、南北間の人的交流が生じにくく、これも失業率の格差が縮まらない一因となっている。
日本では、チョコレートやベルギーワッフル等、加工菓子の産地としても有名である。
日本との経済的関係は、地理的問題(空路の直行便が無い[21]、など)や、文化的交流が少ない等の理由により、その存在は日本では一部企業を除きそれほど注目されておらず、特に銀行はバブル崩壊によりその多くが撤退した。ただし、確かな技術力を持つ企業が多いこと、またコーディネーションセンターに代表される外国企業に対する優遇税制措置が設けられていること、物流拠点としても立地が最適であること、かつ英独仏の主要国に近いこと、等から大手自動車メーカーなどが欧州統括本社等を置いており、在留届を提出している邦人は6,000人近くに達し、在留日本人の総数は欧州の中でも上位に位置する。
ベルギーは人口規模、面積とも小さい国(世界人口の0.1%、陸地面積の0.02%)であるが、中世に起源を持つ繊維産業や石炭の採炭と関連して長くヨーロッパ域内で最も工業の進んだ地域であった。第二次世界大戦以前から鉄鋼業、機械工業、石油化学工業がよく発達していた。しかしながら、石炭産業の斜陽化に従い、1980年代前半まで、長期的な低迷傾向が見られた。その後、EC域内貿易の発展や財政再建によって再び工業が興隆し、石油化学工業、非鉄金属工業、自動車、食品工業を中心とした発展が見られる。ベルギー工業は輸入原料を加工し、半製品、製品として輸出する加工工業が中核となっている。貿易依存度は輸出87.1%、輸入81.1%[22]に達し、ヨーロッパ域内で最も貿易に依存した経済であるといえる。
主な工業都市は、アントワープ(石油化学工業、工業用ダイヤモンド製造業)、シャルルロワ、リエージュ(製鉄業)、テムス(造船業)、クルトレ、ブルッヘ、ブリュッセル、ヴェルヴィエ、ヘント、マリーヌ(繊維業)、ヴァルサンランベール(クリスタルガラス工業)である。
世界シェアの高い工業製品は、世界第7位のプラスチック(670万トン、世界シェア3.3%)、同第8位のスズ(8900トン、2.9%)である。世界シェア1%を超える品目を一覧すると、石油化学、非鉄金属、自動車、繊維、食品といった様々な分野においてバランスの取れた発展を見せていることが分かる。
石炭採掘の歴史は古く、既に12世紀から採掘が始まっていた。現在でも石炭は埋蔵されているが、品質面で国外の石炭と競争できないため、生産が急速に落ち込んでいる。1973年の採掘量は880万トンだったが、2002年時には17万トンまで下がっている。
住民はオランダ語のベルギー方言とも言うべきフラマン語を話すフランデレン人が58%、フランス語を話すワロン人が31%、その他混血などが11%である。特に首都ブリュッセルは中東系を中心とした移民が多く、近年ではアラブ系の「Mohammed」がブリュッセルで生まれる男子でもっとも多く名付けられる名前となっている。
ベルギーの国土は、使用言語により、3つの言語共同体に分かれており、それぞれに地方公用語がある。
ただしそれぞれの話者の割合は均等でなく、オランダ語が60%程度、フランス語が40%程度、ドイツ語が1%未満である。なお首都ブリュッセルはオランダ語の使われるフランデレン地域に囲まれているが、フランス語話者が8割以上を占めていて、フラマン語共同体とフランス語共同体の双方が自治権を持っている。
穏やかな国民性だが、フランデレン地域の人々とワロン地域の人々の間には「言語戦争」とまで呼ばれる対立関係が存在する。2006年12月13日、ベルギーの公共放送RTBFが「フランデレン地域が独立を宣言して国王アルベール2世がコンゴ民主共和国(旧ベルギー植民地)に亡命した」という架空ニュースを流した(後に、議論を喚起する目的があったと説明された)ところ、一時国内が大混乱に陥り、地域間の溝の存在を露呈する結果となった。2つの地域は教育面での質の違いがあり、フランデレン地域の方が質の高い教育を行い、学力の差がある。
宗教はローマ・カトリックが75%、プロテスタントが25%である。1994年の統計ではイスラム教が3%であるが、最近は更に増加していると見られる。ほか、ユダヤ教など。
ベルギー出身またはベルギーで活躍している著名人については、ベルギー人の一覧を参照。
古くは世界的伝説のジャズギタリスト、ジャンゴ・ラインハルト、越路吹雪のカヴァーでも知られる『雪が降る』のアダモを輩出しているベルギーだが、ロック、生バンド系よりも元来テクノ・トランスなどのエレクトロミュージックが非常に盛んである。世界的テクノフェスティバルであるI LOVE TECHNOは毎年夏に開催される。
生系ロックが弱いとされるベルギーだが、ただし、ヘヴィメタル系に関しては老若男女問わず根強い人気を誇る。古くはデス/ブラックメタルの混合バンドの先駆けとされるNOCTERNAL RITE、また、オランダ出身のゴシックメタルバンドEPICAに2009年に新加入したギタリスト、イサック・デラハイ(フランダース地方イーペル市出身) はベルギー出身。又、女性ヴォーカルをフィーチャーしたメタルバンドのフェスとしては世界最大規模の野外フェスMETAL FEMALE VOICEも毎年秋に行われている。
90年代、YOJI BIOMEHANIKAも多大な影響を受けたとされるベルジャン・ハードコア勢のアーティスト、またDJ Q-Heyとの共演、WIREへの出演などで日本でも御馴染の世界的テクノDJマルコ・ベイリー、バブル期にジュリアナを席巻したキラーチューン" NO Limit "で知られるテクノユニット、2 UNLIMITEDもベルギー出身。
近年はハッピーハードコアから進化したJUMPSTYLE(hardstyleのルーツのひとつともいわれている)がクラブシーンを席巻、又、jumpstyle/hardstyle等のよりハードなクラブミュージックのクラブイベントも週末・平日問わず大規模なハコで催されている。
また、ベルギーはドイツに次いで世界的にゴシック/EBM/インダストリアルミュージックの発達した国である。FRONT 242, SUICIDE COMMANDO, IMPLANT, AH-CAMA-SOTZ, THIS MORN` OMINA等世界的ゴシック/EBMアーティストを多数輩出。世界最大規模のゴス/EBMレーベルALFA MATRIXは首都ブリュッセルスに本社を構え、ヨーロッパ全域にネットワークを持つ。
詳細は「ベルギーの映画」を参照
ベルギー国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が9件存在する。詳細は、ベルギーの世界遺産を参照。
備考欄の※は、祝日ではないが、官庁、公共機関、学校などの施設は休みとなる日。
祝祭日が土曜または日曜と重なった場合、翌月曜日が振替休日となる。
詳細は「ベルギーのスポーツ」を参照
ベルギーでは自転車競技が盛んで、国技として挙げられることもある。主要なレースとして、ロンド・ファン・フラーンデレン、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュがある。また代表的な選手として、引退した選手では、エディ・メルクス、ヨハン・ムセウ、現役の選手では、トム・ボーネン、フィリップ・ジルベールがいる。
ベルギーではモトクロスも盛んでありベルギーはモトクロスグランプリの発祥の地と言われる。モトクロス世界選手権( FIM World Championship)はすでに50年以上の歴史を有している。世界的有名ライダーが数多く出現している。
サッカーベルギー代表は、過去に11回FIFAワールドカップに出場しており、最高位は1986年メキシコ大会の4位である。また、UEFA欧州選手権には4回出場しており、1980年イタリア大会では準優勝となっている。また代表的な現役選手としては、ドイツの名門バイエルン・ミュンヘンで2006-2007シーズンのUEFAチャンピオンズリーグの準々決勝で、ACミラン相手にバイエルンの全2ゴールを決めた、ダニエル・ファン・ブイテンがいる。ただ、2004年以降はFIFAワールドカップ・UEFA欧州選手権ともに予選敗退が続きベルギーサッカーは低迷している。FIFAランキングも2007年には71位に落ち込むなどして強豪の地位は危うくなっている。
詳細は「ベルギー人の一覧」を参照
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